2016年6月11日土曜日

西田幾多郎記念哲学館で第72回寸心忌記念講演会 島薗進「近代日本知識人の死生観」近代日本の文学者などの死生観のダイジェスト 聞きごたえがありました。

本日は午後から石川県西田幾多郎記念哲学館で行われた島薗進氏による第72回寸心忌記念講演会「近代日本知識人の死生観」を聞いてきました。寸心というのは,石川県宇ノ気町(現かほく市)出身の西田幾多郎の居士号で,6月7日の命日を寸心忌として毎年記念講演会を行っています。


最近,死生観に関心があるので,聞きに行くことにしました。島薗さんの専門は宗教学で,上智大学グリーフケア研究所所長で東京大学名誉教授です。「グリーフケア」という点で,自分の子どもを亡くしている西田幾多郎と通じる部分があります。島薗さん自身,プライベートで金沢にも縁があるということで,今回の講演にはぴったりの講師と言えます。

講演の内容は,近代日本の文学者を中心とした知識人の死生観を紹介していく内容でした。

近代以前から「念仏を唱えれば救われる」という伝統的な死生観が特に石川県ではずっと続いているのですが,明治時代,加藤咄堂(とつどう)により死生観という使われるようになった後,文学作品を中心に,人間の死に対して色々な捉え方が出てきました。今回は,加藤咄堂に加え,中江兆民,藤村操(”哲学的自殺”をした人),志賀直哉,吉田満などの死生観が紹介されました。

それぞれに,実際のテキストも紹介されたので,実際に読んだような気分になりました。その中では,特に志賀直哉のいくつかの作品が気になりました。高校の時の教科書に出て来た『城の崎にて』などはこの際読み返してみたくなりました。今読むと,違った感想を持ちそうです。また,太平洋戦争末期の戦艦大和の無謀な”特攻出撃”から生き残った吉田満による文章も気になりました。

というわけで,非常にボリュームのある内容だったのですが,その分時間が足りなくなり,最後のパートの「がんで死にゆくものの悲しみ」についてはざっと紹介するだけになりました。その部分がちょっと気になったのですが...。この部分については,会場で販売していた島薗先生による『日本人の死生観を読む:明治武士道から「おくりびとへ」』の中に記述があったので,この本を買って読むことにしました。講演会の後,先生からサインをいただくことができたのですが,考えてみると,これはなかなか上手い商売(?)ですね。


個人的には,最近これまで関心のなかった,浄土真宗などの伝統的な宗教に基づく死生観にも意味があると思うようになっているので,今回紹介のあった,死生観と対比しながら,自分なりの死生観について考えてみようかなと思っています。そのよいきっかけになるような内容でした。

さて,哲学館の周辺の写真です。

まず駐車場から哲学館に伸びる「思索の道」です。ちょっと坂道になっているせいで,ゆっくりと歩いてしまうので,文字通り思索には丁度よさそうです。

哲学館が見えてきました。

ここからの眺めも気持ちが良いですね。

哲学館の前に移設されている幾多郎の書斎の「骨清窟」。

哲学館の中の吹き抜け。丸くなっているのが哲学的(?)ですね。