http://www.kanazawa-museum.jp/bungei/data/tirashi27/shimadamasahiko.pdf
入場料は...驚きの文芸館の入館料100円のみでした(要予約)。
実は島田さんの小説は読んだことはないのですが,NHKのEテレの「100分de名著」での解説が面白く,今回は小説作法についてどういうお話を聞かせてくれるだろうと,楽しみに聞きに行きました。
# ちなみに今年は,『オイディプス王』の解説に登場されていました。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/44_oedipus/index.html
講演会の時間は60分の予定でしたが,お客さんの反応も良かったせいか,質疑応答も含め90分ぐらいになりました。とても狭いサロン的空間に大勢の人が入っており,島田さんとしても,話がいのある雰囲気だったと思います。
今回の講演のタイトルは,島田さんの著作と同じ「小説作法XYZ」でしたが,その意図としては,ABCより一歩進んだ,小説を作る人も対象とした「XYZ」という内容でした。島田さんはマックのノートパソコンだけを持って登場しました。自由気ままに話されているように見えながら,島田さんが考える小説作法のキモをしっかりと伝えてくれました。
話は,映画には「歩く」シーンが付きものというところから始まりました。歩くシーンのない映画はない。「ほっつき歩くシーンを意味深に見せるのが映画のキモ」と仰られていましたが,物語の中にもいろいろなパターンで歩くシーンが出てきます。歩きはじめないとコトは始まらない,ということです。
その後,具体的な小説や人物の例が次々と紹介されていきました。メモを取りながら聞いていましたので,以下,その内容をご紹介しましょう。
# 小見出しは私が勝手に付けたものです。
# 内容は間違っているかもしれません。問題がありましたらご連絡ください。
■古代ギリシャ
- ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』は,いずれも最終的に主人公がボロボロになって故郷に戻ってくる話。
- どこで何をしたかが重要。吟遊詩人が朗読した時,聞き手の出身地が出てくると喜ばれた。
- 場所に対するオマージュが文学には必ずある。
- ドストエフスキーを読んでいる人は顔に出ます。皆さん,そんな顔をしていますよ。
- 『罪と罰』のラスコーリニコフは小説の最初の部分から,歩き回っている。
- その後,酔っ払いの相手をして家まで送った後,少女ソーニャと会い,作品のテーマの一つである「魂の救済」へとつながる。
- リア充のためにも,歩き始めないとコトは始まらない。
- 本能的な一目ぼれがいちばん正しい,とシェイクスピアは言っている。
- 『ロミオとジュリエット』のロミオもよく歩いていている。
- インドでは,「愛」には次の5つがあると言われている。①師弟愛,②友愛,③親子愛,④夫婦愛,⑤5不倫
- 夫婦の関係は,時には憎悪を乗り越える必要もある。「理性の産物」でもある。
- 不倫は「至高の愛」である。最も本能に忠実で,止むに止まれずの愛である。
ここで,島田さんの名言(?)
人間はいくつになっても,助平心を引きずって,外に出て歩く。その限りにおいて,人間は文学的である。■カント
- 歩くと筋肉を使い,脳に刺激がある。その結果,発想が広がる。
- カントなど哲学者もよく歩いていた。
- カントの『永遠平和のために』は,権力を握った国家に理性は期待できない。国家間の関係の中でなら平和は考えられるかも,といった国連の発想の元になった著作である。
- この「永遠平和」という言葉は,散歩中に見つけた言葉である(葬儀屋の看板にあった「永遠平和」から取ったもの。死者にしか平和は訪れないというのは皮肉でもある)。
- 高みに上る「登山」と文学の相性は良い。
- 低きに流れる「ビーチ」の方は...あまり関係は深くない。石原慎太郎は例外?
- 登山については,人里離れたところで宗教的な修行をすること以外,実は有用な目的は少ない。
- ペトラルカとダンテあたりから,登山と文学の関係が出て来た。
- ペトラルカは,登山をしながら,自分の半生を振り返っていたことに気づいた。歩行の時間は内省に似ている。これが山頂を目指すアルピニズムの始まりとなった。
- ダンテは,これをさらにコンセプチュアルにし,『神曲』の煉獄篇は,登山としてとらえた。徳を積み,罪を浄める「浄化」と一致させたのはキリスト教的である。また,経験値を貯めて強くなるのはロール・プレイング・ゲームと同じである。
- 教会や聖地など巡る巡礼を口実に見知らぬ場所を訪れる形式は,世界共通である(「お伊勢参り」「メッカ巡礼」)。
- お伊勢参りと言えば,関所をすんなり通してくれた。これを口実に物見遊山をしており,そちらが主目的になっていった。メッカ巡礼も同様。
- 近代化が進み,産業構造が変化してくると,農村から都市への人口の流入が進んだ。
- 漱石の『三四郎』など,田舎から都市に上京し,よそ者として移り住んで味わった挫折や憂鬱を描いたものが多い。近代文学の多くが東京を舞台としている。
- 温泉に行って保養するタイプの話もある。新聞小説が旅行ガイドとして使われていた。
- 新聞小説は,東京のイメージを作り上げるためのメディアになっていた。
- これらは,主人公が動きまわることで成立していた。
- 漱石の『彼岸過迄』は,他人の身辺を嗅ぎまわってニワカ探偵として東京都内を歩き回るような話である(# 島田さんはこの作品がお好きだそうです。島田さんの『彼岸先生』(泉鏡花文学賞受賞作)は,漱石のこの作品へのオマージュ?)。
- (島田さん自身)東京都内に向かう電車に乗りながら,乗っているそれぞれのお客さんの物語を推測したくなる。外見や読んでいる本から推測したり...
- 場末の居酒屋などに入って,しばらく話を聞いていると,隣人について色々なことが分かる。こういう,「ゆるいスパイ活動」は,小説を描く際の人物造形に役立つ。
- 小説家は,キャラを作った上で,そのキャラをコマとして動かすのだが,ストーリーに奉仕させ過ぎるよりも,コマにもバックグランドをあるようにした方がリアリティが増す。
- 黒澤明は,リアリティを増すために演出にこだわった。その結果,お金が掛かり過ぎ,作品数が減った。
- 『七人の侍』では,人物像にリアリティに持たせるため,俳優に共同生活をさせ,実際に登場しない人物を含めて,しっかりと家族構成表を作っていた。
- 『羅生門』では,雨の迫力を増すため,大量の墨汁を降らせた。
- 『影武者』では....
- 小説は,そういったコストはかからない。その代わりに頭を使う。
- 小説では,単語の結びつき,「てにをは」,動詞...など言葉をどう結び付けるかにいちばん労力を掛ける。映画で言う「編集」に当たる作業である。
- ただし,言葉については,「格言」「熟語」といった形で既製品として出来あがっている。辞書的な意味で使うのは,他人の作った言葉の借用となる。
- 言葉の最少単位にまで戻って,工芸職人のように言葉を構築すべきである。小説家は,言葉を素材に道具や装置を作る職人である,といった精神を持つ必要がある。
- ただし,凝り過ぎると通じなくなるので,その辺の兼ね合いが重要。
- 自分の体験した「一次情報」をベースに発語していけば,自分でつくる部分は残るはず。
- 小説家が作るものは,自然界に存在するものではなく,人間が作り出した仮想のものである。
- 人間には「力を獲得したい」という意識がある。それに基づいて,自然から得た素材を加工して作ったものが小説である。
- しかし,技巧を越えて人に届くものを作れるのがいちばん良い。
- 技術はもうよい。一見シンプルだが心に刺さるもの(ただし,トラウマにならない程度に。過去,トラウマになる作品を残してきた反省があるので...)を作っていきたい。
【Q1】ロシア語を学んでいたことの文体への影響は?
- 文体は過去の作家から学ぶことはある。そこには外国語も介入しているので,ハイブリッドなものである。東京外国語大学時代は,1年生の頃からロシア語を叩きこまれた。そのせいで,いい具合に日本語が崩れたかもしれない。
- 方言と標準語を話すことのできる人にはアドバンテージがある。
- 語り口の癖は,個人方言のようなものである。
- よりオリジナルの象形文字に近い,篆書が好きである。
- おろどおどろしい意味があったりするが,それを理解していると多少違ってくると思う。
【Q4】音読することを意識しているか?
- 2つ合わせて回答
- 言葉を再構成していく作業は,俳句に近いものがある。
- 井原西鶴の『好色一代男』は,俳句調の描写に徹しており,情報量が多く,リズミカルである。
- ストーリーテリングというのは,フォーマットであり,その基本的な構造はソフトのようなのである。オリジナルではなく,実は皆同じである。それで安心して読める。
- 言葉を磨くのが純文学であり,作家らしさは,オーディオビジュアル的な要素に出る。
- 欧米では新作が朗読で発表されるのが普通である。仲間内での朗読が始まりである。
- 鉄は冶金という技術で作られた自然の産物である。
- 文学も色々なものを人工的に作ったものである。
- ただし,人工的に作ったものは壊れてしまう。結局,自然に返るのではないか。
これを機会に,島田さんの小説を何か読んでみたいと思います。