芳賀さんの研究テーマは,セルゲイ・ディアギレフ主宰のバレエ・リュス(ロシアバレエ団)ですので,「一体,秋聲とどうつながるのだろう?」と思ったのですが,秋聲はダンスを自分で踊るだけではなく,アンナ・パブロワをはじめ,いろいろなダンスを見ていたということで,日本のバレエ受容史の話とつながっていました。
芳賀さんの語り口は大変滑らかで,予定の講演時間2時間をフルに使って,バレエそのものの歴史と日本での受容史を概観し,秋聲にとってのダンスがどういうものだったかについて,情報量たっぷりのお話を聞かせてくれました。
(参考)芳賀直子さんのWebサイト
http://naokohaga.com
個人的には,まず,バレエの歴史の話が勉強になりました。芳賀さんは,バレエの歴史は,包括的にまわりのことを分かっていないと研究できないと言われていました。そのとおりで,西洋史をはじめとした世界の歴史とのつながりが面白いと感じました。
以下,内容を紹介しましょう。章立ては私が勝手に付け,順番も再構成したものです。理解の足りない部分などもあると思いますので,間違いがありましたらお知らせください。
1 はじめに
- 今回は,金沢にある「高橋麻帆書店」のつながりで講演することになった。
- 秋聲がダンスを始めたのは,当時としては相当な老人と言える60歳からだった。秋聲のように「見る」「踊る」の両方をやった文学者は少ない。
- 秋聲の生きた時代は,バレエ史的には,ロマンティックバレエの終焉からバレエ・リュス・ド・モンテカルロの活動期に該当する大変面白い時代である
(1)ダンスとバレエの違い
- 「5つの基本ポジション」の有無だけの違い。トゥシューズを履かないバレエもある。
- バレエについては,近年は動画で保存することが多いが,楽譜に該当するNotationも今でも使われている。
- 日本では,この2つは混同されている。
- 海外でButohと書かれた場合は,土方巽から始まった「白塗り」の舞踊を指す。舞踊は色々なダンスやバレエなどを含む広い概念である。
- 秋聲の生きていた時代の舞踊は,現在よりは,教養に近いものだった。
バレエの歴史は,ルネッサンス期にイタリアで始まり,フランスで発達後,ロシアで完成。その後,バレエ・リュスとバレエ・リュス・ド・モンテカルロによって世界に広がったと要約できる。(1)イタリア
- ルネッサンス期のバレエは「バロック・ダンス」と呼ばれる。
- その後,カトリーヌ・ド・メディシスがフランスに伝えた。
- ルイ14世はバレエを愛した。彼の肖像画に「足」が描かれることが多いのは,そのため。「太陽王」と呼ばれたのも,彼が演じたバレエの役名から来ている。
- その後,王権は消えてもバレエは残った。"Beauty is power"ということで,みんな観たかったから残った。
- 権力に愛されると様式化される。ボーシャンによって,「バレエの5ポジション」が体系化され,文法化していった。
- その後,ルイ14世は太ってしまったため踊れなくなるが,1713年,バレエ学校を創設した。これがパリ・オペラ座のバレエ学校の創設年となっている。
- ロマンティック・バレエというのは,「ロマン主義文学(この世のものでないものを描いた文学)によるバレエ:
- トゥ・シューズの起原は定かではないが,この頃は使われていた。重力からの自由をトゥ・シューズでのダンスで表現した。
- ロマンティック・バレエの代表作は1832年の「ラ・シルフィード」,1841年の『ジゼル』
- 権力と近かった時代のバレエは「男の時代」だったが,ロマンティック・バレエは女性メインのダンスだった。男役も女性が演じるようになり,次第に衰退していく。
- 1870年の『コッペリア』がロマンティック・バレエの最後。
- ちなみにドガによるバレエの絵はこの頃描かれたものである。
- 当時のロシアは帝政であり,すでにバレエ学校があった。また,サンクト・ペテルブルクなどでは,フランスへのあこがれが強く,上流階級はみんなフランス語を話すことができた。
- そして,フランスで行き場がなくなった男性ダンサーの多くがロシアに向かった
- その頃,プティパが現れ,全幕上映+パ・ド・ドゥ形式を作った。そして,当時すでに有名作曲家だったチャイコフスキーが3大バレエ音楽を書いた。
- プティパに対して,ミハイル・フォーキンが現れ,短く即興性に富んだダンスを作った。その代表が「瀕死の白鳥」
- 「瀕死の白鳥」を踊ったアンナ・パブロワがロシア人のスター・ダンサーの最初。
- パブロワはバレエの伝道師として生きたことは重要。彼女によって世界各地のバレエの歴史は変わった。
- そして,このパブロワの踊りを秋聲が観ている。
- ロシアのバレエは帝室劇場中心だったため,なかなか一流になれなかった。ディアギレフはロシアでの居場所がなくなり,芸術の中心のフランスに行った。
- バレエ・リュスには,音楽,美術などについても当時40歳以下の若く優秀な人が参加し,毎年のように新作を作り続けた。これは驚くべきこと。
- 男性スターの時代になり,ダンサーの「おっかけ」がこの頃から始まった。これは女性の生活に余裕ができたこととも関係ある。
- 新作を作るだけでなく,『ジゼル』をフランスで復活させることも行った。
- しかし,1929年ディアギレフが死去。代わりはいなかった。
- ディアギレフの没後も,「観たい」「やりたい」人は多く,1931年バレエ・リュス・ド・モンテカルロが誕生する。
- ただし,ディレクターが現場の人間でなかったため,ダンスの技のクオリティが次第に落ちていった。
- それでも,バレエ・リュスの衣装と美術で踊り続け,次世代につなげた功績は大きい。また,バレエ・リュスが行かなかったオーストラリアなどにも行き,世界にバレエを広めた。
- ベビー・バレリーナと呼ばれる12~14歳の子どもを看板スターにするなど興業上の工夫も行った。
- バレエについては「良いものを作る」ことだけではなく,「興業上の成功」することも必要である。その点は,ディアギレフがうまかった。
- ちなみに竹久夢二がこのバレエ団を米国で観ている。
(1)黎明期
- 鹿鳴館の時代の舞踏会がはじまり。
- 1911年にヨーロッパのオペラ・ハウスを目指した帝国劇場が開場し,教育も始まった。
- ただし映像のない時代だったので,教育にとっては不幸な時代だった。
- その代わり,他のダンスとバレエとの垣根は低く,「自由さ」「面白さ」もあった。この,「色々混ざっている」点は日本的なものかもしれない。
- 1916年にエレナ・スミルノワとボリス・ロマノフが来日し,帝国劇場で昼公演を行った。
- 秋聲がダンスを始めた時代は,日本のバレエ・ダンスの黎明期だった。秋聲はダンスを観るのを楽しみ,「但女優は今少し体格の大きいのを揃へてほしい」などと書いている
- 当時,ダンスホールで女給と踊れる時代だったが,「風紀を乱す」などと言われた。この辺については,西洋と日本での「(人間と人間の間の)距離感」に対する感覚の違いのようなものがあるのかもしれない。
- 秋聲は,日本舞踊と比較して「ダンスの方が自然」「気分がせいせいする」と書いている。秋聲は,この頃,自分ではまだ踊っていないが,舞踊の根源的な快楽に気づいていたようである。
- 1922年にはアンナ・パブロワが来日し,大きな影響を与える。
- 秋聲は,アンナ・パブロワについて,「(ヴァイオリニストの)ジンバリストよりも感興が起こらなかった」「歳を取り過ぎている」など正直な感想を書いている。
# 芳賀さん自身,日本だと忖度を求められることが多いので,バレエの批評は書かなくなったそうですが,そう考えると秋聲の「空気を読まないような正直さ」は現在では考えられないものなのかもしれません。また,この秋聲の気質については「いちがいもん」(金沢弁で「頑固者」)とも言えるとのことです。
- 関東大震災で帝国劇場が壊れた後,1924年アンナ・パブロワは,チャリティ公演を行っている。英国的な作法を身につけた人だった。
- 1927年,エリアナ・パブロバによる日本初のバレエ学校が鎌倉にできる。
- パブロバは,アンア・パブロワからは「偽物がいる」などと言われたが(そのため,「パブロバ」と区別している),しっかりと教えたいという熱意を持っていた。バレエの教科書を全部トレーシングペーパーで写すことをしている。
- 当時の広告には,「バレエ=まわる」というつながりで,扇風機の広告の中にバレリーナが出てきたりしている。
- その後,宝塚少女歌劇からバレエ受容が進み,「お姫様になれるかも」というあこがれの存在になっていく。
- 少女マンガの中にバレエ・マンガが出てきて,色々な階層で広がったのも日本の特徴
- ダンスには「風俗としてのダンス」の側面もある。戦後は進駐軍のためのダンスとして,風俗の世界と結びつく。
- 「日本バレエ史」の本はない。どうしても闘争史のようになり,詳しく書けず,大きな流れを書くしかない。
- 秋聲がダンスをするきっかけは,1926年の妻はまの死。
- その後,山田順子との恋愛事件の後,医師の誘いもあり(健康のためという理由),1930年にダンスを始める。
- その後,秋聲の終生の趣味になり,ダンスについて,「気障なものではない」「運動のようなもの」「社交に良いも」といったことを語っている。
- ダンサーについては,その環境を親身になって考えるなど,低く見てはおらず,一人の女性として暖かい視線で見ている。
- 秋聲は,終戦を待たず,1943年に死去。
- 1946年,全幕バレエ「白鳥の湖」が17日間に渡って上演された(今でもこれを上回る記録はないとのこと)
- みんな「良かった,良かった」と絶賛し,その後,日本で全幕バレエが一般化するきっかけとなった。
- ただ,秋聲が観ていたらどう評価していただろうか?芳賀さんとしては,冷静にジャッジした評価を読んでみたかったとのこと
秋聲のダンス観の根底にあったのは「自由な身体の魅力」だったのではないか。以上,勝手に私の方で膨らませてしまった部分もあるのですが,私自身,クラシック音楽の歴史にも関心がありますので,大変面白く聞くことができました。
芳賀直子さんは,著名な国文学者の芳賀矢一のご子孫ということで,徳田秋聲記念館の上田館長は,特に色々な感慨をお持ちだったようです。秋聲記念館での展示の方はまだ観ていないのですが,「ダンスのステップ」を踏まないと入れない工夫がされているということなので,是非,展示の方も観に行ってみたいと思います。
金沢21世紀美術館の方では,本日から新展示「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」が始まっていました。
ざっと観てきたのですが...これは2次元の世界の展示ではなく,音あり動きありの,独特の世界観が広がっていました。各展示室が見世物小屋になっているような怪しげな雰囲気に浸りながらじっくりと観てみたいものです。
以下,晩秋の金沢21世紀美術館の様子です。
講演会の前はかなり天候は悪かったのですが... |
講演会が終わった後,雨が上がっていました。 |
こちらは床に映った空です。 |
こちらは講演会の後。かなり色合いが違いますね。 |